病人が見た『ハーモニー』(映画編)。

(注:ストーリーの結末に関わる記述があります)

放送大試験勉強の傍ら見ていたアニメのひとつ。他にもエヴァを延々見ていたけど、ほとんどが心に響いて忘れられなかった。

『虐殺器官』は前に本読んで(リンク)映画見て(リンク)、本当に人が沢山死ぬけど、話の底を流れているものに惹かれてひたすら読んでいた。本作では人が死んでも画面上にはそんなに映らないが、一見無機的で救いのない世界(原作では特にそう)にも人が生きていて、その感情の動きが魅力だと思う。両者のバランスがいい。

『ハーモニー』のヒロインやその友たちと同じく、わたしは心の奥底で人生に疲れて絶望すらしているし、そのかなりの部分が亡き原作者の伊藤計劃氏と病は違えど、一生の病を持っているからだ。最初は一生薬飲んで気をつけていかなければいけないなんて知らなかった。しかし時間の経過とともに病は遺伝が絡みもっと重いと分かった。今もいろんな制限がかかっている。健康だった頃の自分がもう思い出せない。最悪の場合自分は死ぬだろうし、ごく若い、伊藤氏と同じ年頃から「長く生きられないかもな」と思いながら10年単位(10年ではない)を生きてきた。いや、予想に反して生きてしまった。

その状況が前作に触れたときから変わったわけではなく、自分の置かれた状況にずっと絶望していたことが意識できるようになっただけだ。

そういう観点から語られる『ハーモニー』があってもいいのではないかと思った。

URL: http://project-itoh.com/contents/#/harmony/top/


映画の最初の30分だけでも何度御冷 (みひえ) ミァハの追憶が出てきただろう。映像が綺麗なだけでなくミァハにすっかり魅了された。

作品のテーマは医療。「大災禍」というカタストロフィのあと、人は生府(医療合意共同体)なるものにWatchMeというデバイスで高度に体を管理され、ひたすら健康でいることを強要される世界になってしまった。最初に「無機的」と書いたが、東京の街は血の通った人の臓器(小腸の内側の柔突起あたり)のようなピンクや赤色をして生々しく描かれていた。

「わたしって、じゅうぶん鋭いと思う……」
それもミァハの口癖だった。
何にとってじゅうぶん鋭いのか、それは訊くまでもなかった。
公共の敵(パブリック・エネミー)として。
この、真綿で首を絞めるような、優しさに息詰まる世界に徒なす日を夢見る狂人として。

ハヤカワ文庫JA(2014) 新版 p17-18


酒・タバコはもちろんカフェインさえ、体に悪いとされ許されない。「あなたのため」というやさしさから。米欧は核戦争でもうない。わたしも毎日様々な薬で体調を管理しないと重大なことになるので、ユートピアに見えてディストピアなこの設定にのめり込んだ。この「やさしさ」は例をあげると自殺を考えた人が、「良かれと思った」相談員に「命は大事」とかくだらない説教を自殺専用窓口で受けるような?と思い当たった。設定が複雑なので、この手の話に慣れない人には特に、映画では説明不足だったかもしれない。

あの頃、ヒロインの霧慧(きりえ)トァン(沢城みゆき)、 友人の零下堂キアン(州崎綾)はいつもミァハと一緒にいて、クラスからは外れものだった。だからより強く結びついたのかもしれないが、3人で心中をしようとするくらいに絆は強かった。3人は大人になって体にWatchMeが入れられる前に死のうとする。

一緒に示そうよ
わたしたちはおとなにならない、って一緒に宣言するの。
このからだは
このおっぱいは
このあそこは
この子宮は
ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かに怒鳴りつけてやるのよ
このひとたちの一員になるのはまっぴらだって

ハヤカワ文庫版JA (2014)新版、p11


死んだのはミァハだけだった。

大人になっても、残りの2人はそのことに負い目を持っている。WHOの螺旋(らせん)監察官をしているトァンは少し上に書いたように、何かあればミァハを思い出す。あの時ミァハはこう言っていた、別の時はこう言っていたと。

自分のティーンエージャーの頃を思い出しても、女性の場合、純粋に友達が好きで(陰口なんて言わずに)ずっと友達でいられるなんて、それが大人になっても続くなんて美しい話はなかなかない。15歳の時にその辺で嫌な思いをして、いつでも友達と行動するのをやめたくらいだ。

事態が変わるのは、仕事で謹慎を受け日本に戻ったトァンがキアンに会ったとき、食事中に目前でキアンが突然自ら死んでしまったところから。「ごめんね、ミァハ」と言い残して。時を同じくして世界中でWatchMeに守られたはずの人々が自殺を図り、犯行声明が出る。トァンは捜査に乗り出す。というような話。


映画は浸っていたくて2回見た。思うに、ミァハが死んでからのトァンは危険な優等生だった友に並ぶような知識や存在感を身につけたが、「サバイバーズ・ギルト」がいつも共にあり過去の幻影にとらわれながら生きている、または生きていることさえ投げやりにも見える。沢城みゆきさんがいい仕事をしていて、淡々とクールな、タフでプロフェッショナルで、仕事柄もあるが物事の裏ばかり見えてしまう彼女の声を熱演していた。

ミァハを演じた上田麗奈さんの声は甘く、「一緒に死なない?」と言われたら自分がふらふらついて行ってしまいそうな、一見儚いけど吸引力のあるキャラクターだった。彼女はその時代にはもうなかった「本」をわざわざプリントして作ってもらい、読んでなんでも知っていた。本の存在がはるか昔話になる時代とはどんなものだろう。心中の前にもう死んでしまうのだから、とミァハが本を燃やしながら、その時代には失われてしまった過去のいろんな逸話を語るシーンは幻想的だった。

特にこの2人の服装も入れたビジュアルデザインや、学生の時の3人のシーンは好きだった。

映画を見てから、長いこと積ん読だった原作を読み終えた。SFマガジンの著者インタビューが巻末にあって、映画にあった百合展開は著者が考えていたようなことを書いてあった。あれだけの話を映画2時間程によく収めたなと思ったけど、実は生きていたミァハとトァンのラスト近くの対峙は原作と少し違っている。原作にはさらにからくりがあってそこも読み甲斐があったけど、映像で見られる魅力も十分にあって、どっちも好きだ。

病人目線で語ると先に書いた。体調には波があり、いろいろ調整しなければときに動かない心と体を疎ましく思うこともある(伊藤氏はがん患者だった。彼がそうだったかは分からないけど、がんは二次的にうつを発症することがある)。どこまでわたしはこの体で行かなくてはいけないのか、自分まるごとの存在意義はどこにあるのか。どれだけループしたのかもう覚えてないけど、そう思っている時期にこの映画を見た。


映画の終盤で「ハーモニー・プログラム」が人類に埋め込まれていることをトァンは知る。作動してしまうと人の日常の選択は自明に選択される。つまり、体は動くがすべてが自分の意識と関係なく行われる。買い物だってもっと難しい選択だって、意識がないのだから人は悩む必要がない。戦争もない、争いもない。ただ意識は消える。「わたしがわたしでなくなる」わけだ。


かつて死にたがっていたミァハはそれを押し進めようとしているグループの中核にいた。幼いときの辛い体験もあったのかもしれない。

本当に辛いことがあって、自分の存在なんてと思う気持ちは現在進行形でよく分かる。体は生きたまま脳は幸せにいられれば頭ではそれは楽なんだろうということも分かる。ただ、やはりそれに”No”を叫ぶ自分がいる。それなら辛いと思いながら生きるかと問われればそれも辛い。難しくてとても考えてしまう選択だ。ここを考える機会があっただけでも、この映画や本に触れた甲斐があった。フィクションとして「ある意味」楽しんで鑑賞した人もいるかもしれないが、こちとら実存の問題なのだ。わたしにとっては、苦しいなら安楽死するかどうかというような話だ。

映画のラストでは、原作で話全体に出てきていたhtml様のソースが並んだ石碑のようなところに現れ、次々ハーモニー・プログラムに書き換わってゆく。ある板に最後に表示されて消えたのは、

「さよなら、わたし」。

トァンの最後のことば。


(小説は次のエントリでレビューします)

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